母に遺した手紙
2025年08月09日
[鹿児島県]
知覧の特攻隊員(2)

今から80年前、特攻で亡くなった若き隊員。
母親へ宛てた手紙には「日本一の幸福者」と記されていましたー。
太平洋戦争末期、知覧から250キロの爆弾を積み込み、敵艦へ激突していった439名の特攻隊員がいました。
この国のために死ななければならないー。
知覧特攻平和会館には、特攻隊員たちの遺書が大切に保管されています。
母への遺書を書いたのは、佐藤新平少尉 23歳。
遺書より
「お母さんへ、思えば幼い頃から随分と心配ばかしおかけしましたね。家を出発する時、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中頭に焼き付いて、ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかったことだけ残念です」
「日本一のお母さんを持った新平は、常に幸福でした。日本一の幸福者新平・最後の親孝行にいつもの笑顔で元気で出発いたします。」
母に宛てた最期の手紙-。
23歳の青年にそんな遺書を書かせたのが、戦争でしたー。
出撃命令が下るまでの束の間、隊員たちにとって心の拠り所となった食堂がありました。